やさしさに包まれたならこれ本来、休日モードの話題。
すでに終わってしまったが。汗)
先日、松任谷由実の「守ってあげたい」や「春よ、来い」を紹介した。ついでにもう一曲、これもかなり古い(1974年)のだけど、「やさしさに包まれたなら」、これもけっこう良い曲だと思う。
ちなみに宮崎駿監督のアニメ「魔女の宅急便」でも使われていたとかで記憶が定かでないが、そうだったかなという気もする。
この歌、けっこうディープなことを軽いノリで表現していると思う。私たちは、小さいころ「神」を意識していただろうか?ここが大事なところだ。ちなみに、自分が小さいころ神様と近かったかどうかは、客観的には覚えていない。笑)
ある意味大人の側から見たノスタルジアの部分があるとしても、余計なお荷物をかかえこんでいない子供という存在は、製造元である神に、大人よりはるかに近いところにあるといえる。
さて、自分の経験だが、幼児期の記憶というものはごくごくわずか、断片的なものだけが残っているにすぎない。しかし、どういうわけかやけに鮮明に覚えている部分もある。それは通常ありえない記憶だと思う。目とか耳で得た記憶ではないのだ。そのひとつが生まれた直後の記憶??
病院で流し?のようなところで体を洗われた?ような感覚。これは親からテレパシックに感知した情報なのか、自分の本当の記憶だったのか不明。新生児というのは、まだ意識が体に縛られていなく、自由な状態にあるのではないかと思う。場を全体として意識しているのであって、こうした意識の状態や記憶の質が、大人とはかなり違うのではないかと思う。
さらには母のおっぱいに心地よくしゃぶりついている感覚(の断片)も覚えている。おそらく1歳未満だろう。実は母のしゃべっていることの意味はわかっていて、ちゃんと意志は通じていると思う。基本的にこの<言葉>は習う必要はなく、新生児の状態から問題なく使いこなせているはずなのだ。誰でも。さて音声の言葉で理解しているのか、テレパシーで理解しているのか??
まあ生まれてしばらくは、ほとんどが夢心地の世界に生きているのだろう。そのなかで時折、大人のようにふと意識が鮮明になるときがあるのではなかろうか。その時の記憶がかすかに残っているのだと思う。
閉ざしていたこころのカーテンを再び開けば、また子供の時のような素直な気持ちで、神のメッセージにも気づけるかもしれない。
このメッセージは実は自分の中からでてくるのだ、っていうわけで、けっこう大事なこと言っている。
「心の奥に しまい忘れた 大切な箱 開くときは今」
「やさしさに包まれたなら きっと 目に写る全てのことは メッセージ」
やさしさに包まれたなら作詞・作曲/荒井 由実
編曲/松任谷 正隆
歌/荒井 由実
小さい頃は 神様がいて
不思議に夢を かなえてくれた
やさしい気持ちで 目覚めた朝は
大人になっても 奇蹟は起こるよ
カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことは メッセージ
小さい頃は 神様がいて
毎日愛を 届けてくれた
心の奥に しまい忘れた
大切な箱 開くときは今
雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことは メッセージ
カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目に写る全てのことは メッセージ
※ちょっと試聴
http://www.toshiba-emi.co.jp/yuming/ra/99/03.wvx※おまけPV
1994 「春よ、来い」
収録アルバム:THE DANCING SUN
http://www.toshiba-emi.co.jp/yuming/pv/09.wvxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
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